我が国の琵琶楽は6・7世紀頃、中国大陸より伝来した「楽琵琶」と「盲僧琵琶」に大別される。いずれも曲頚の琵琶である。楽琵琶は唐の都より直接日本の都に移入された(正倉院の琵琶は直頚)。盲人のお坊さんが琵琶の伴奏でお経をあげる盲僧琵琶は九州地方に伝来したと言われている。

  桓武天皇の延暦4年(785)伝教大師最澄が比叡山延暦寺建立にあたり、九州より8人の盲僧を呼び寄せて、土荒神の祈祷のための琵琶の妙曲が演奏された。この内4人が都に残り、相坂山(逢坂山)に妙音殿という琵琶道場を開いた。これが鎌倉時代初期建久7年(1196)まで四百十一年間続いたので、都の雅楽琵琶の奏法や製作法、音楽及び工芸の文化が吸収され、ここに都の盲僧琵琶が生まれた。始祖は残った4人の一人、満市と言われている。

  鎌倉期の初め、薩摩島津家の初代忠久が源頼朝の命により、薩摩・大隈・日向三州の守護職に新任し、九州に下るとき、都の盲僧琵琶の正統第19代宝山検校も伴い、南薩伊作(吹上町)に常楽院を建て、薩摩盲僧琵琶の始祖となった。その後島津氏の祈祷僧として明治維新まで島津氏の庇護の下に栄えた。

  戦国時代末、元亀・天正年間、薩摩・大隅・日向の第十五代領主 島津忠良(日新斎)は、盲僧の淵脇寿長院に命じ、日学(儒教・仏教・神道の三教を融合した新たな学問)といわれた彼の哲学を、琵琶歌によって伝え広め、道義の確立した社会の建設に役立たしめようと思い立ち、従来薩摩の国で演奏されてきた盲僧琵琶を改良し、音量も大きくさせ、演奏に合わせて武士階級に教訓的な歌を歌わしめた。これが薩摩琵琶の起源である。その後改良が加えられ、第十七代義弘の頃、薩摩琵琶の原型が出来上がったとされ、17世紀初め(江戸時代初期)十八代家久の頃一応の完成をみた。
明治維新で多くの薩摩人が京都・東京に出て来た事により、一地方芸能であった薩摩琵琶が一般大衆に支持され、大衆芸能へと変わっていった。

  その後、大正時代、永田錦心が「錦心流」を、昭和になって水藤錦穣が楽器を改良し、また三味線の技法を採り入れた「錦琵琶」を、第二次大戦後、鶴田錦史が「鶴田流」を起こし、本来の薩摩琵琶・正派と合わせて、4つの流れが現在活動している。

 
 延暦4年伝教大師最澄が比叡山延暦寺建立にあたって手柄のあった筑紫の盲僧 定玄は 玄清法印という名と仏教の位を与えられ、筑前(福岡市)に成就院を本山とする仏教寺院を築いた。15世紀末、応仁の乱勃発により、権力者の保護を受けられなくなり、盲僧の生活が困窮、琵琶を担いで檀家を廻り琵琶の伴奏でお経を唱え、僅かなお布施を得るようになっていった。その際、余興として滑稽な語り物を語る者が現われ、その品位が著しく下落した。
明治時代中期、橘玄清法印の子孫と称する一丸智定(初代橘旭翁)が出て、薩摩琵琶と三味線音楽を研究、吉田竹子らの協力を得て琵琶も改良、新しい語り物の琵琶を創作した。
 現在は旭会・橘会の二大流派がある。


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